昨年の年末に断捨離の本にはまって、年末年始から大量にモノを減らしている。
そのおかげで、ココロもスッキリ、体もスッキリしてだいぶ軽くなってきた。
なぜモノを捨てるとココロと体が軽くなるのか?
今まで手放せずに持っていたモノを手放す時には葛藤が出てくる。
その葛藤とは何か?
その葛藤をよく見てみると、その奥には不安や自信のなさが隠れている。
例えば自分は本をなかなか捨てられなかった。
同じ本を2回読むことはまずないのに。
そのせいで、本棚5個分ギッチリ+そこらじゅうに本が散乱していた。
本が捨てられない心理的な原因
本を手放すときによーく考えてみた。
本はここにあるだけだ。だぶん一度読んだ本はもう読まない。
なのになぜ手放せないのか?
そこには自分の知識、もっと言うと学力に対する自信のなさがあった。
その自信のなさを補う(ごまかす)ために自分は本を大量に保有していたのだ。
本の価値は所有することにあるのか?
それらの本を読んだときは、自分の知識や思考が広がった。
(そしてそれをノートに書き留めた)
だから買って読んだ価値はあった。
しかし、自分にとってその後はもう価値はない。
本当は一度読んだ時点でもうその価値は自分のものになっていたのだ。
でも、それを自分で認めらてあげられなかった。
それは自分の学習能力に自信がなかったからだ。
自然と本が手放せるようになった
本を読んだときに書いたノートを読み返してみて、そこに書かれていることが自分の今の思考のベースになっていることが確認できたら、自然と本を手放せるようになった。
そのときに、本当はノートも手放せるのではないかと考えたが、そこまでは割り切れなかった。
でも、ノートも見直すことはほとんどない。
自分にとってノートは、書くことで自分の考えを整理するためのツールであり、思考を記録して後々見直すためのものではなかったことがわかったのだが、まだ愛着があった。
いずれそれらのノートを手放す時も来るだろう。
そのときは、今の自分よりさらに自信を持った自分になっていると思う。
「捨てられない」の裏には不安やコンプレックスが隠れている
話がそれてきたが、とにかく使わないモノを手放せないということは、その裏になにか不安や自信のなさやコンプレックスが隠れている。
そしてそれは普段、自分で認識できていない。
しかし断捨離という作業を通して強制的にそれを認識するようになる。
断捨離とは単にモノを捨てることではない。
自分の奥底にある根拠のない不安やコンプレックスを強制的に認識して、それが意味のない間違った思い込みだと認識する作業なのだと思う。
不安やコンプレックスが減ると行動の制限が減る
そう考えると、モノを捨てるという行為自体はある意味「儀式」なのだと思う。
自分が根拠なく信じていた不安やコンプレックスを、実は単なる間違った思い込みであり、そんな思い込みは持つ必要がないと認識して、それをモノを捨てるという行動で再確認するという儀式だ。
そして不安やコンプレックスは行動を制限している。
本当は出来ることを自分で押さえつけて出来ないと思い込んでしまっている。
断捨離によって不安やコンプレックスが減ることで、それによって押さえつけられていた行動が出来るようになる。
だから体も軽くなったように感じるのかもしれない。
モノを捨てることによってどんどん行動の制限がなくなっていく。
どんどんココロと体が軽くなっていく。
ちなみに、これによって日常のストレスも減っていく。
今までストレスのために暴飲暴食をしてきたが、それもかなり少なくなった。
そのおかげで体重も減ってきた。
まさにいいことづくめだ。