「差別」と「区別」の違いについて考えてみた〜あなたは大丈夫?他人よりも自分を差別していませんか?〜

スポンサーリンク
15805835445_f36d330446_b

昔ネットでこんな記事を読んだ。

ある小学校の運動会で「足が速いか遅いかで順位をつけるのは差別だから、みんなで手をつないで同時にゴールするようにしよう」という意見が出て、その通りに全員同時にゴールさせた。

これを読んだとき「さすがにそれはやり過ぎだろう」と思ったが、具体的に何が間違っているのかまでは考えなかった。

最近になって仕事関係で「差別」と「区別」について考えることがあったので、そこで考えたことを綴ってみたい。

「差別」と「区別」辞書の意味は

ネットの辞書を調べてみると以下のような説明になっている。

「さ‐べつ」【差別】
1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の―を明らかにする」
2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって―しない」「人種―」
「く‐べつ」【区別】
あるものと他のものとが違っていると判断して分けること。また、その違い。「善悪の―」「公私を―する」
(国語辞書 – goo辞書)

どちらも「違い」を認めるという部分については同じような意味だが、差別の方は「他よりも不当に低く取り扱うこと」とある。

この「不当に」というところが差別の問題の本質なのではないだろうか。

「不当に」とはどういうことか?

この部分について深く考えてみようと思ってネットを調べてみた。

ネットには様々な意見があるが、一番よくあった意見は次のようなものだった。

「差別」は比較することで優劣や上下関係をつけて分けること。
「区別」は対等な関係を保ちながら違いを認めること。

確かにこれは納得いくような感じがある。

しかし、優劣をつけたり上下関係をつけるのは「不当」なのだろうか?

どのような優劣をつけるかにもよるだろうが、運動会で足の速さに基づいて順位をつけるのは優劣をつけることになるのではないだろうか?

それなら運動会で順位をつけることはやはり「差別」になるのか?

このままでは自分の考えがまとまりそうになかったので、さらにネットを調べたら次のような意見を見つけた。

「差別」は非合理的な差の認識
「区別」は合理的な差の認識

自分はこの考え方のほうがしっくりくる。

足の速さで順位をつけるのは「合理的な差の認識」と考えられる。

だから運動会で順位をつけるのは差別ではない。

つまり「不当に」とは「非合理的に」という意味と考えてよいのではないだろうか。

では「非合理的に」とはどういうことか?

ここで、「非合理的に」とは自分が最近考えていた「間違った思い込み」につながるのではないかと思いついた。

多くの人は「自分は正しく考えている」と思っているが、実は多くの場合「間違った思い込み」によって正しく考えられていない。

「間違った思い込み」とはざっくり言うと次の2つのパターンに分けられる。

  1. 本当は「ある」ものを「ない」と思ったり、本当は「出来る」ことを「出来ない」と思ったりする。その逆パターンもあり。
  2. 本当は「関連していない」のに「関連している」と思ったり、本当は「因果関係がない」のに「因果関係がある」と思ったりする。その逆パターンもあり。

そしてほとんどの人は、自分がそのような間違った思い込みを持っているということを認識できていない。

例えば最近書いた記事
「なかなか行動できない人に送る、君の背中を押すラリー・ペイジとイーロン・マスクの言葉」
はパターン1を指摘したものだ。

また、
「自尊心と自己価値感は分けて考えた方が人生が捗るのではないか、という話(メンヘラ思考から抜け出して自分を大切にしよう)」
「自己価値感欲求を手放して資源の無駄遣いをなくそう!心理学は人と地球を救えるのか?〜Google創業者ラリー・ペイジの言葉から考えたこと〜」
はパターン2を指摘したものだ。

これらの記事は、間違った思い込みのせいで自分の人生を悪くしてしまうばかりでなく、無駄な資源を浪費して環境問題を引き起こしているという内容のものだ。

そして「差別」の本質的な問題とは、このパターン2の間違った思い込みによるものではないだろうか。

つまり「ある1つの事実を見て、それとは関係のない別のことをあたかも関連があるかのように結びつけて判断してしまう」ということが「差別」につながっているということだ。

これが「不当」であり「非合理」ということだと思う。

つまり「差別」とは

つまり「差別」とはこういうことではないだろうか。

運動会でゴールした順番に順位をつける。

これは差別ではない。ゴールした順番は実際に起こった現象であり、その順位は「足の速さ」のみを表している。

問題はここからだ。

「足の速さ」が「人間としての価値」に関連すると考える人がいるとする。

すると足が速い人は偉くて、遅い人は偉くないという考えにつながる。そして足が遅い人を「足が遅い」という理由で見下すようになる。

これは間違っている。「足の速さ」と「人間としての価値」は関係がないからだ。

しかし小学生くらいの子供は、運動能力のようなわかりやすい指標を人間の価値に結びつけてしまいがちだ。

同時にゴールさせることを提案した大人は、子供がこのような思い込みを持ちやすいことを理解していたのだと思う。

だから子供たちが足の遅い子を見下さないようにと配慮しようとしてこのような提案をしたのだろう。

だが学校の教師が「足の速さで順位をつけるのはよくない」というメッセージを送ることは、子供の「足の速さは人間としての価値に関係する」という思い込みをより強化することにつながってしまう。

これでは足の遅い子供は「やっぱり足が遅いことは悪いことなんだ」と考えて「自分には価値がない」と思い込んでしまう。

教師がやるべきことは手をつないで同時にゴールさせることではなく、足の速さで順位をつけるが「それは足が速いか遅いかということだけであって、他のことには関係無い。ましてや人間の価値はこんなものでは決まらない」と子供に伝えることなのだ。

自分に対して差別をしていませんか?

人間は自分では認識できていない多くの間違った思い込みを持っている。

そしてその思い込みから、間違った関連付けをして物事を解釈したり判断したりする。

それによって他人を不当に低く取り扱ったり、不利益を与えてしまうことが「差別」だ。

しかしそれは他人に対してだけではなく、自分に対しても行っているのではないだろうか?

つまり間違った思い込みを持っている人は、心の中で自分自身を不当に低く取り扱い、自分の人生にとって不利益になる行動をとっているのだ。

自分を差別するのはもうやめよう。

そのためには自分の中にある間違った思い込みに気づき、それを手放すことだ。

<参考記事>

・なかなか行動できない人に送る、君の背中を押すラリー・ペイジとイーロン・マスクの言葉

・自尊心と自己価値感は分けて考えた方が人生が捗るのではないか、という話(メンヘラ思考から抜け出して自分を大切にしよう)

・自己価値感欲求を手放して資源の無駄遣いをなくそう!心理学は人と地球を救えるのか?〜Google創業者ラリー・ペイジの言葉から考えたこと〜

・自分の中にある間違った思い込みを修正して自由を手に入れよう!無駄なストレスも消える!

関連本の紹介

スポンサーリンク

フォローする