死んでしまったら本人の欲求もやりたいことも消えるので、後悔や無念などは残らず、本人的にはゼロ(無)に戻るだけだと思う。
だから死ぬことそのものが不幸だということではないと思う。
(あくまでも本人的には。家族や友人などにはその人がいなくなることで寂しさや苦しさが残る)
死ぬことよりも不幸な「本当の不幸」とは
本人的に不幸なのは、生きている間の時間とエネルギーを有効に使わずにすごしてしまうことだ。
そして下手をするとその無駄使いに最後まで気付かずに一生を終えてしまうことだ。
病気で余命宣言された人は、残された時間の少なさを思い知り、少しでも後悔を少なくするために生き方を変えて「自分が本当に大切だと思うこと」に集中するようになる。
そして、最後に少しでも自分の時間を有効に使ったという実感を味わえたなら、それはその人の人生にとってプラスになったと言ってよい。
しかし、もし普段から「自分が本当に大切だと思うこと」に集中して生きていたら、いつ死んでもその人の人生は良いものだったと言えるのではないか。
たとえ、それが不慮の事故であったとしても。
大切なのは生きている時間をどう使うか
たとえどんなに注意して生活していても人間死ぬときは死んでしまう。
そう考えると、死なないことではなく、生きている間の時間をどれだけ自分が大切だと思うことに使えるかということに人生の重心をシフトしていった方がいい。
ちなみに、「自分が大切だと思うことに時間を使う」とは、あることに対して自分が納得のいく行動をすることであり、その結果はそれほど重要ではないと思う。
よい結果が出るにこしたことはないが、それよりも重要なのは「納得のいく行動」ができたかどうか、つまりその時その時に自分が置かれた状況で、自分が出来る最善と思える行動が出来たかどうかだということだ。
「今を生きる」という言葉があるが、私はこの言葉がそれを表していると思う。
今を生きるとは
「今を生きる」とは、決して未来を考えない刹那的な生き方をするということではない。
「今さえ良ければいい」という考え方でもない。
自分の人生をより良くするために、または自分が大切だと信じるもののために「今この状況でできること」を探しその中から「最善の行動」を選ぶことに集中し、それを実際に実行する。
それが「今を生きる」ということだと思う。
しかし、なかなかこれが出来ない。
過去の失敗やイヤな出来事、他人の嫌いなところや、今後起こることへの不安などをグルグルと考えてしまい、何も行動ができないということが多い。
行動につながらない思考は意味がない。今できることに集中しよう
これらの事を考えるのは決して悪いことではない。
嫌いな人のことを嫌いだと思うのはしょうがないし、過去の失敗や未来への不安を考えるのは悪いことではない。
それらをきちんと考慮したうえで行動することは非常に重要なことだ。
しかし、それらを考えていることに時間を使ってばかりだったり、それらの責任を他人に押し付けることばかり考えて、結局自分の行動につながらなければ、単なる時間の無駄使いになる。
それは、今できることがあるのにしていない、つまり「今を生きていない」ということ。
ちなみに私は、自分の人生や自分が大切だと思うものに対して出来ることは、いついかなる状況でも常に必ず存在すると思っている。
(これが私の考える「ポジティブシンキング」)
問題は、それに気付き、それをやろうとするかどうかだ。
どちらを選択するかは自分しだい
不平や不満を言い続けて、行動しないことを選択するのか、それとも行動して後悔を少なくするのか。
それは自分の選択にかかっている。
それから、行動するにしてもその目的が「他人の目を気にして」というものであるなら、やっぱりそれも時間とエネルギーの無駄使いだ。
そして、そのような行動をするかしないかも自分で選択できる。
結局、人生は全て自分次第ということだが、逆に言えば、どんな状況だろうと自分の人生を良くすることは出来るし、状況そのものはコントロールできなくても、自分の人生の大切な部分に関するところは自分でコントロールできるということだ。